神輿(みこし)と奈良



「神輿乗り」という行為があるようです。

三社祭の報道で初めて知りましたが「御神霊を汚す行為」であり、「危険な行為」として禁止されているにもかかわらず全然守られてきていないとのこと。

本来の「神輿」の意味を踏みにじったものであり、真面目にお祭りに参加している衆(わたしの友人には、肩のあざを厭わず、呼ばれてあちこちの神輿担ぎに参加して回っている真剣派が居ます。)にとっては迷惑な話でしょう。

東京では山王祭、神田祭と共に伝統のある三社祭(1312年に始まったとか)なので今後は正常化されることを期待したいもの。

さて「神輿」の起源、歴史について。

国史「続日本紀(しょくにほんぎ)」などによると大仏造立に貢献した八幡神が天平勝宝元年(749)奈良に入京し、完成したばかりの東大寺大仏を拝したのが「神輿」の始まり。

はるばる九州から宇佐宮の女禰宜(にょねぎ)・大神杜女が八幡神の「神輿」のお供をして、「紫の輿」に乗って東大寺転害門をくぐったのです。
まさに「神仏習合」です。
(その後、総本山の宇佐の八幡神は、石清水八幡宮や鎌倉鶴岡八幡宮にも渡られました。云わば古代版スピンオフでしょうか^^。)

さてそんな「神輿」が時代を下ると形を変えて強訴(ごうそ)というとんでもない行為に利用されるようになるとは。。。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて、比叡山延暦寺(北嶺)・東大寺・興福寺(南都)などの僧徒が大挙して入京し、「神輿」や「神木」を担ぎ、朝廷に対し強訴を行ったのです。

云わば神の権威を振りかざした強権的行政訴訟みたいなもの。

前兆となったのは永保二年(1082)、熊野神輿の入京訴訟。

この強訴に対抗すべく使われたのが貴族の犬ともいうべき武士たちで源氏や平氏が興隆してきたのもこの時代。

結局、比叡山・東大寺・興福寺などの相対的な地位はどんどん低下し、武家統治の時代となりました。

さて、奈良では、「神輿」を町衆が担ぐ類のお祭りは滅多に見ません。(ないでしょう。)

強訴の反省か、寺社主体の内部統治が徹底されためか、或いは町衆がおとなしいだけなのか、神輿を民衆を担ぐという行為、文化は奈良では定着しませんでした。

春日大社の一大イベントである「若宮おん祭」、つまり「ザ・祭り」は、いわゆる通常の祭りとは全く好対照。

「遷幸の儀(せんこうのぎ)」と言って、若宮を、本殿からお連れする神秘の儀式から始まります。

真夜中から開始し丁度1日延々と続く「24時間」は暗闇から開始します。

若宮が本殿から出られる前に、すべての電燈、明りは消され、地上がカンペキな浄闇になるのです。

神様が宿る自然に対し真摯な姿勢が古代の祭りの基本なのでしょうか。

あるのは浄闇の参道いっぱいに広がる森の茂みからこぼれてくる星の明りのみ。

ここでは民衆はひたすら神の宿る自然に対し畏怖を感じ、敬虔になるのです。

熱気あふれる勢いの江戸や大阪、博多などのお祭り世界観と全く異質な静謐の世界観。
もちろん「おん祭り」にも盛り上がりはあって、正午過ぎからの「お渡り」以降は、流鏑馬、神楽(かぐら)、東遊(あずまあそび)、田楽(でんがく)、細男(せいのお)・猿楽(さるがく)・舞楽(ぶがく)・和舞(やまとまい)と賑やかな芸能の奉納が続きます。
しかし、「賑やか」ですが「おとなしい」お祭りです。

全く好対照の神事ですがいずれも日本のアイデンティティとしての側面を垣間見ることができます。

写真ははじめての「神輿」に八幡神が載り、東大寺転害門より入ったとされる様子を描いた「東大寺八幡縁起絵巻」(下)と東大寺大仏開眼1250年記念に行われた宇佐八幡神輿の東大寺御神幸(宇佐フェスタ)(上)。

今は東大寺境内に手向山八幡宮として鎮座されており、もはや担ぎ出されることはないのでしょう。

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