世紀の大発見「奈良時代新薬師寺金堂跡の発見」

○世紀の大発見です。奈良時代の新薬師寺金堂跡地が発見されました。
驚くべきはそのは規模で空前絶後です。
東西54m×南北27mと測定されたとのこと。
復元中の平城宮大極殿を上回り、東大寺大仏殿並み、ということになります。
近所のシカも驚きでしょう。
新薬師寺の「新」はnewと言う意味でなく、「霊験あらたか」の意です。
薬師寺周辺の西ノ京と違って、新薬師寺は訪れる観光客は少なく、どちらかと云えば熱心な古都散策派の奈良ファンが訪れる閑静な住宅地です。
それ故に何かありそうな歴史探索の地でもあるのですがやはりの発見です。
白丸が柱が林立していた箇所だそうです。



○点線で覆われた箇所が新薬師寺金堂跡。奈良教育大の敷地内で、周辺は高畑町本薬師。
空中写真からでも十分その規模の大きさがうかがえます。 上は現状で下は、奈良時代の復元です。
この復元では新薬師寺が小さく、もっと大きなサイズとして修正しないといけません。
○奈良時代の地図「東大寺山堺四至図」では東大寺と新薬師寺の位置関係が明示されており、今回の発掘でこの地図の通りであることがはっきりしました。







○これはおそらく奈良教育大附属小学校の屋上から撮影したものでしょう。小学生時代、6年間ここで過ごしましたがまさかこんな遺跡があったとは。この周辺は冬ともなると雪合戦の場所でした。

奈良教育大の敷地の中では北東の隅で、崖上の一段高いエリアです。
階段で昇っていかないといけない敷地ですがこれはまるで東大寺大仏殿と同じです。
大仏殿も西側が傾斜・崖となっており高所に位置していますがこの新薬師寺本堂も類似したロケーションで高所に位置していたことになります。

となるとこの巨大寺院は、金堂が54m×27mとすると高さは30m前後あったわけであり、しかも東西両塔も聳えていたとのことですから、平城宮の中では一際、目立つ存在だった可能性があります。

それどころか、興福寺や元興寺よりも地勢が上で見下ろすようなポジションです。


○ヘリまで出動して航空写真撮影したようです。現状の新薬師寺本堂や入江泰吉写真美術館と比較してもそのスケールの大きさは驚きです。


○気になるのは今後の保存、公開、周辺発掘です。
これだけの発見ですし、そのまま校舎を建設するわけには行かないでしょう。
今後、塔跡、南大門、講堂など本格伽藍の発見が期待されます。
幸いにして国立大学ですから敷地内の国史跡への転換も容易だと思われます。

広大な敷地ですから建物棟はほとんど使われていない南側グランドへの移転、レイアウト変更は十分可能と思われます。
或いは学部によっては同じ国立の奈良女子大施設との共用も検討してもよいかもしれません。




○これだけの石材が良く残ったものです。木材の再利用、転用は当たり前ですから石材も十分有り得た筈です。しかも戦国時代には多聞山城や大和郡山城に寺院から多くの石材が石垣用に「魔よけ」として使われています。
1000年以上の歴史の中で、この新薬師寺の主要伽藍の存在さえも完全に忘却されていたのか、或いは、何らかの配慮で、触られずに済んだのか。


今日もソニー業績ショックに、円高進展、株価暴落といつもと変わり映えのないニュースの日々と思いきや、これぞすごい報道です。

さて10年後、50年後にはどうなっていることやら。
完全保存を乗り越え、薬師寺のように金堂復元となれば素晴らしいことですが。

そうなると観光客が少ないこの町内も少しは観光客を意識した街づくりを目指していかないといけないかもしれません。

以下、産経新聞と朝日新聞からの引用です。

先ずは産経新聞。


新薬師寺は、平城京の東に大伽藍(がらん)が広がり、薬師如来など30体以上もの仏像が並んでいた可能性があるという。平城京西部には藤原京時代から法灯が継承された薬師寺があるのに対し、光明皇后は京の東に新たな寺院を建立することで東方にある薬師如来の浄土「浄瑠璃(じょうるり)世界」を具現化しようとしたようだ。
 創建時の東大寺大仏殿にも次ぐ規模という金堂内に具現化された浄土世界。記録によると、薬師瑠璃(るり)光如来など7体の仏像「七仏薬師像」が並び、それぞれに脇侍、さらに十二神将などが守護する荘厳な空間が広がっていたらしい。奈良教育大の山岸公基准教授(日本・東洋美術史)は「堂の規模からするとさらに多く安置されていても不思議はない。荘厳美麗を尽くした群像だったことだろう」と考える。
 「続日本紀」には天平勝宝3(751)年、病気の聖武太上天皇のために49人の僧を新薬師寺に招き延命の祈願を行ったとする記述もあり、同寺で実際に厳粛な祈りがささげられていたこともうかがえる。
 「薬師如来の浄瑠璃世界は東にあるので、この地に寺を置こうとしたのだろう。東に建てることで聖武の延命を祈り、都城の新たなモニュメントにもしようとしたのではないか」。山岸准教授は当時の国力を踏まえ、こう指摘した。


こちらは、朝日comからの引用です。

新薬師寺の巨大な金堂跡出土 奈良時代で最大級 2008年10月24日1時18分

    8世紀中ごろの奈良時代に建立された新薬師寺(奈良市)の金堂跡とみられる巨大な建物跡が、近くの奈良教育大構内で見つかった。同教育大が23日発表した。

推定の大きさは東西54メートル、南北27メートルで、現存する東大寺大仏殿に匹敵する規模。


これまで平城京の主要寺院で唯一不明だった新薬師寺の全体像を探る貴重な発見で、仏教を中心にした天平文化をうかがう手がかりにもなる。  


現場は現在の新薬師寺の西約150メートル。同大学の校舎建て替えに伴う調査で、約1300平方メートルを発掘した。  

凝灰岩の切り石を丁寧に積んだ当時としては最高級の「壇上積(だんじょうづみ)基壇」の一部で、底部を支える延石(のべいし)(または基壇の階段の石)が東西約10メートルにわたり出土。


基壇の南東部分からも延石計約3.7メートルが発見された。地盤が弱い西端部分では柱穴が4カ所確認された。大きな地固め石を四角い穴(一辺2.7~2.9メートル)に十数個埋めて柱の礎石を支える堅固な工法だった。  これらの遺構から建物は、裳階(もこし)(飾り屋根)を含めた柱間(はしらま)が東西11間(54メートル)、南北6間(27メートル)と推定した。


江戸時代再建(1709年)の現・東大寺大仏殿(東西57メートル、南北50.5メートル、高さ46.4メートル)に次ぐ規模。


奈良時代の都・平城京で天皇が執務したとされ、現在、遺構を元に復元が進む大極殿(東西44メートル、南北19.5メートル)より大きい。

今回の遺構は奈良時代では最大級で、新薬師寺の中心の金堂跡と判断した。  正倉院に残る絵地図「東大寺山堺四至図(さんがいししず)」(756年)にも、金堂にあたる「新薬師寺堂」が大仏殿より横長で描かれており、これが裏づけられた形だ。  新薬師寺は、東大寺を創建した聖武天皇(701~756)の病気平癒を祈り、当時の権力者、藤原不比等の娘の光明皇后が747年に創建した。


新薬師寺では、現在は本堂(東西22.7メートル、南北14.9メートル)が残るだけ。他の建物は780(宝亀11)年の落雷や962(応和2)年の台風で失われたとされ、寺域は不明だった。  調査を担当した奈良教育大の金原正明准教授(環境考古学)は「権力者・藤原氏の出身で権勢を誇った光明皇后の政治力の大きさを具体的に知る、新たな手がかりになる」と話している。  現地説明会は10月25日(午前10時~正午、午後1~3時)と11月22日(午前10時~正午)。場所は奈良教育大学構内の北東隅で、駐車場はない。(編集委員・小滝ちひろ)      



◇  〈新薬師寺〉 東大寺の末寺である華厳宗の寺。現存する本堂(国宝、8世紀)は他の用途だった仏堂が転用されたものと考えられ、中央に直径9メートルの大きな円形須弥壇がある。本尊の木造の薬師如来坐像(ざ・ぞう)(国宝、8世紀末ごろ)を、怒りの表情をした塑像の十二神将像が囲む。天武天皇が7世紀に創建した薬師寺(奈良市)は法相宗で、別の寺。病気平癒など現世利益を祈る仏様として広く信仰を集め、各地に同名の薬師寺や薬師院がある。



■一級の古代建築遺構  奈良文化財研究所・箱崎和久主任研究員(建築史)の話 新薬師寺にこれほどの規模のお堂があるとは想像していなかった。平城宮大極殿クラスなのは間違いなく、一級の古代建築遺構と言えるだろう。ただ、金堂の周りに回廊がとりついていたかどうかなど、現時点では不明な点も多く、今後調査が進むのを期待したい。


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