新薬師寺の謎

①若草山斜面からの高畑・新薬師寺方面です。今では塔もなく宅地の中に埋没した風景です。
②奈良時代東大寺を北側から眺めた風景。左上が新薬師寺です。
③新薬師寺伽藍全景。この金堂を遥かに凌ぐ、巨大な金堂であることが判明しました。



先日発見された「幻の新薬師寺金堂」跡。


現地説明会も開かれ、実家からも見学に行ったようです。


ともかくその巨大なスケールには圧倒されるとのこと。


江戸時代の東大寺大仏殿並み、平城宮の大極殿以上、とは!


となると次は、新薬師寺の全体像の解明です。


幸いにして民家が建ち並ぶ宅地内でなく国立大学の敷地内ですから今後、継続的な発掘調査が期待できるでしょう。


特に気になるのは東西両塔の位置や南大門、それに寺域境界です。


この伽藍がどれだけ巨大であったかは金堂跡で十分明確なのですがやはり塔や南大門のスケールもどうであったか大事なポイントです。


あの金堂の位置からすると一番有り得そうなのは、奈良教育大附属小学校の校庭です。(西塔)


お宝探しの遊びはずいぶんやりましたがまさか校庭のど真ん中辺りにまさに当たりになりそうとは!

元興寺塔跡を発掘した際はずいぶんと古銭・翡翠の勾玉などが出土したとのこと。


何れは発掘されるであろう新薬師寺塔跡からは何が出土するか将来の楽しみです。



ところで一点、気になることがあります。


それは同じく奈良教育大の敷地内にある吉備塚との関係です。


驚異的にあの奈良時代に長生きし、81歳に没した吉備眞備の墓と伝えられている吉備塚がまさに新薬師寺旧境内に位置していたということになります。


学者出身で右大臣まで登りつめたのは後の菅原道真と吉備眞備のみでその波乱万丈の人生は興味深いものです。


遣唐副使となって唐に渡った時にはその才を惜しんで玄宗が帰国させなかったとか、唐の鬼に幽閉されたときに阿倍仲麻呂の生霊に救われたとか今に伝わるエピソードの多い人物です。




光明皇后没(760年)後も藤原氏一門が権勢を握る時代、生き残り、左遷されながらも最後は右大臣にまで昇格し、775年に没しています。(80歳)


その吉備眞備の塚が、光明皇后ゆかりの新薬師寺の境内に位置し、しかも、現存の新薬師寺に隣接して、鏡神社があります。


鏡神社の祀神は、眞備と敵対して大宰府で反乱を起こし、敗死した藤原広嗣です。


この密接に関係した奈良時代の人物に関わるスポットがこの高畑に集中しているのはまさに「新薬師寺の謎」かもしれません。




以下、産経新聞の文化欄からの引用です。






平城京東側に当たる奈良市高畑町奈良教育大構内で、奈良時代の建物基壇(基礎)の大型遺構が見つかり、同大は23日、「光明皇后が建立した新薬師寺の金堂跡とみられる」と発表した。基壇の規模は東西約54メートル、南北約27メートルと推定され、創建時の東大寺大仏殿に次ぎ、平城宮大極殿に匹敵する巨大さという。聖武天皇と光明皇后政権の強大な権力をみせつけるとともに、平安時代に中心部が倒壊し、謎に包まれている同寺院の実態解明につながる発見といえそうだ。
 調査地は、平城京の東に張り出した興福寺のある外京(げきょう)のさらに東で、東大寺の南方。現在の新薬師寺の約150メートル西。校舎改築に伴い構内の約1300平方メートルを調査した。
 その結果、基壇南側中央付近の最下部とみられる凝灰岩の延石と、奈良時代の瓦が堆積する溝が約10メートルにわたり出土。東南すみから直角に曲がる延石が、南西部から柱の礎石下を支えたらしい人頭大の地固め石(根石)群を据えた一辺が3メートル大の穴4基が、それぞれ見つかった。推測される建物規模は主要部で東西9間(1間4・5メートル)、南北4間(同3・9メートル)という。



奈良時代の絵図「東大寺山堺四至(さんがいしいし)図」(正倉院宝物)には、東大寺三月堂の真南に「新薬師寺堂」が描かれ、調査地と一致。「東大寺要録」(12世紀初め)などによると、新薬師寺では七仏薬師像を9間の堂に安置したとされ、遺構から推測した建物規模とも合致した。
 このほか、創立時の瓦や仏像の装飾に使う奈良三彩の破片なども見つかった。
 現地説明会は25日午前10時と午後1時から行われるほか、11月22日午前10時からも予定されている。

森郁夫・帝塚山大学教授(歴史考古学)の話
 「新薬師寺のもとの中心部が明らかにされつつあるのは画期的で、金堂がこれほどの規模とは驚いた。東西両塔院は金堂院のさらに外にあったとみられ、東大寺や大安寺と同じような伽藍配置だったのではないか。そこには鎮護国家思想の標榜(ひょうぼう)や仏教観がうかがえる」

【用語解説】新薬師寺
 天平19(747)年、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を願って創建し、「七仏薬師像」をまつったとされる。金堂や東西両塔などが並んだと文献にあるが、平安時代の大風で金堂などが倒壊したという。現在の新薬師寺は創建時の伽藍の一部とみられ、本堂(国宝)は奈良時代の建物。薬師如来坐像(同、平安時代)や十二神将(同、奈良時代)が安置されている。

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