もっと壮大だった新薬師寺

奈良高畑現地上空から旧新薬師寺金堂跡撮影(NHKの報道より)


光明皇后ゆかりの正倉院展の最中に皇后ゆかりの新薬師寺巨大基壇が発見されたのでした


驚くシカ

近所のシカももう一度びっくりです。

先日報道のあった奈良教育大敷地内で基壇が発見された新薬師寺金堂跡。

実はもっと壮大だったようです。

http://www3.nhk.or.jp/news/k10015369771000.html

当初報道と異なっていて、現在の東大寺大仏殿(江戸時代再建)より幅広だったとのことで驚きです。

メディア各社はヘリコプター出動で上空から写真撮っていますが、映像を見てもはっきりしますが目も眩みそうな大きさです。

奈良教育大も現地保存に方針転換したそうで何よりです。

これでまた奈良の名所がひとつ増えました。

以下産経と朝日からの引用です。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081113/acd0811132121005-n1.htm

http://www.asahi.com/culture/update/1113/OSK200811130103.html

奈良・新薬師寺金堂跡 広がる遺構に光明皇后の絶大な力
2008.11.13 21:14

新薬師寺金堂跡とみられる建物跡(下、シートで覆われた敷地周辺)と東大寺大仏殿(上)=13日、奈良市(共同通信社ヘリ) 現在の東大寺大仏殿をしのぐ規模だったことが13日、明らかになった新薬師寺金堂とみられる巨大遺構。聖武天皇の后(きさき)だった光明皇后の強大な力を再び浮き彫りにし、基壇正面の広い階段は、七仏薬師像が並ぶ細長い仏堂の壮麗さをうかがわせた。ただ、研究者らの想像を超えた巨大遺構だけに建物は多くの謎も秘めている。

 調査の結果、正面階段は東西約52メートルに及び、けた外れの大きさだったようだ。発掘調査を担当した金原正明・奈良教育大准教授(環境考古学)は「七仏薬師像の7体が並んだ内陣に合わせ総階段が設けられたのだろう」と説明。奈良文化財研究所の箱崎和久主任研究員も「類例のない階段。新薬師寺の特殊性なのか、奈良時代中期以降の特徴なのかを、これから考慮しないといけない」と指摘する。

 階段だけではない。基壇上の金堂の東西規模は当初予想の9間を上回る13間(約59メートル)に及ぶことが判明。研究者らを一様に感嘆させている。巨大さの背景に何があるのか。

 新薬師寺が建立された天平年間には東大寺の支寺にあたる国分寺などの建立や大仏造立の詔、諸国での七仏薬師像造立の命が出されるなど大事業が相次いだ。金原准教授は「東大寺と並ぶ国家事業として建てられたので、これだけの大きさを有したのではないか」と推測する。

 また東大寺要録によると、光明皇后は夫、聖武天皇の病気回復を祈願して新薬師寺を建立した。国家を守る夫だけに、そこには切実さが感じられ、権力者だった藤原不比等の娘としての大きな力も伝わってくるようだ。同時に皇后は、一般の病人を治療するため現在のサウナのような空風呂を法華寺(奈良市)に建設したとも伝わるなど、病気に対して尽力したことで知られる。

 千田稔・立命館大大学院客員教授(歴史地理学)は「光明皇后の力が大きかったことはよく知られているが、今回の発見で想像以上の力をうかがい知ることができる」と語った。

以下、朝日新聞

奈良市の奈良教育大構内で見つかった新薬師寺の金堂跡とみられる巨大建物跡(8世紀)は、東西幅約52メートル(推定)の長大な階段を備えていたことがわかった。同大学が13日、発表した。建物正面(幅約59メートル)のほぼ全面が階段という古代建築では極めて珍しい構造だった。

 新薬師寺は、東大寺を創建した聖武天皇(701~756)の病気平癒を祈り、光明皇后(701~760)が747年に創建した。

 現場では10月、凝灰岩の切り石を丁寧に積む「壇上積(だんじょうづみ)基壇」の延石(のべいし)(底部の石)が、建物跡正面の中央付近などから東西計約14メートルにわたり出土した。その東端部分から、さらに違う構造の凝灰岩列が約4メートル分見つかった。延石の上に積む外装用の地覆石(じふくいし)が載っていることから、基壇の本体部分と判明した。

 10月出土の延石列はこれより1.8メートル南側に張り出しており、外装用の地覆石も使われていないため階段の一部と判断。張り出し部の出土状況から、階段の東西幅は約52メートルにわたると推定した。

 これに伴い建物の規模を再計算したところ、10月時点では東西約54メートル、南北約27メートルとみていたが、東西約59メートル、南北約20メートルと推定した。東西は現存する東大寺大仏殿(約57メートル)を上回る。

 古代の仏堂の正面階段は本尊の仏像の正面に1~3カ所程度、それぞれ数メートル幅で設けるのが一般的。「東大寺要録」によると、新薬師寺の金堂は本尊の薬師如来像が7体安置されたとされる。このため、調査を担当した奈良教育大の金原正明准教授(環境考古学)は「1列に並ぶ仏像群を重視してそれぞれの本尊を同格に扱うために、幅広の階段が設けられたのではないか」とみている。

元奈良国立文化財研究所長・鈴木嘉吉さん(建築史学)の話 他に例のない幅広の階段を持つなど、全く思いもつかなかった姿の仏堂だ。天武天皇が建立した薬師寺がすでにあるのに、新薬師寺と名付けられたのは、「新しい時代の寺」という光明皇后と聖武天皇の絶大な自信の表れからではないか。長大な金堂跡からそう推測できそうだ。

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