異色の新薬師寺七仏薬師堂(金堂)跡地は保存へ

2008年に発見され考古学会のみならず日本を驚かせた新薬師寺金堂遺跡の発見。
その後の経緯はどうなっているのか、と思っていたら丁度、先月末に公開シンポジウムがあったようです。
http://www.nara-edu.ac.jp/ADMIN/SECRETARY/sinyakusi-ji_sympo20100124.html

内容は以下の講師・テーマで
司会 今正秀(奈良教育大学)

•「新薬支持旧境内調査の概要」 金原正明(奈良教育大学)
•「新薬師寺と東大寺」 吉川真司(京都大学)
•「奈良時代の仏殿と本尊についての私見」 菅谷文則(橿原考古学研究所)
•「新薬師寺金堂安置の仏像群と薬師信仰」 山岸公基(奈良教育大学)
•「新薬師寺想定金堂の復元設計と古代建築の技術」 清水重敦(奈良文化財研究所)


推定では、

●ともかく金堂のサイズが巨大
 
 東西60m×南北16mで創建時大仏殿に次ぐ幅。

 ちなみに、その他の奈良の大型建造物では、
 平城宮第一次大極殿  44m×19.5m
 興福寺中金堂       37m×24m
   東大寺大仏殿                  57m×50m(創建時86m×50m)

●しかも幅50mの階段付き⇒特別な儀式用?
●7体の薬師如来&それぞれ2体の両脇侍
 それに十二神将と四天王を加えた合計37体(7+7×2+12+4=37!)の仏像が安置
●薬師像7体が見えるよう幅5mの扉が七つ

超一級の史跡であることは確かなので当初は、学校施設の新築を検討していた奈良教育大も保存に前向きとのこと。
これほどの貴重なスポットは稀なので是非、将来的には一部基壇の再現などを視野に遺跡公開保存を検討してもらいたいものです。
丁度、高畑は日本最古の古道、山の辺の道の北端でもあり、このような史跡をしっかり保存、公開するのは意義深いと思われます。


http://www.nara-edu.ac.jp/PUBLIC/NARAYAMA/2009au02.pdf
広大な奈良教育大学なのだから敢えて、金堂跡に校舎新築をする必要はないでしょう。

仮にスペースが手狭であるなら、今や利用率が低下している鍋屋町の奈良女子大の寮地に再度、附属幼稚園を戻し、高畑にある幼稚園を移設すれば良いのでは?(或いは誰もそれほど使ってなさそうなバレーコートを利用するとか。)
(国立大学の財政状態が厳しいのはもちろん分かりますが、私学並みの寄付金・資金集め努力など皆無に等しくやるべきこと、やれることはまだまだあるように思えます。)


それにしても奈良時代に作成された「東大寺山四堺至図」で示された通りの伽藍だったとは!
発掘と云えばもっぱら平城宮跡周辺ばかりが目立っていましたが、平城京では外京であった伽藍地帯でもこのような奈良時代のトピックが出てくるとは全く興味深い発見でした。
以下、奈良新聞からの引用。
http://www.nara-np.co.jp/20100125114631.html
奈良市高畑町で見つかった新薬師寺の金堂とみられる建物跡について、奈良文化財研究所の清水重敦・景観研究室長(建築史)は24日、奈良教育大学の公開シンポジウムで外形の復元プランを発表した。安定性や記録に残る仏像の大きさから、屋根の低い長大な建物を想定している。

 東西約60メートル、南北約16メートル、高さ約13メートルの寄せ棟造り。7体の薬師如来像を安置した須弥壇に対応し、正面に長大な階段が付く。

 遺構をもとに描いた復元プランで、須弥壇のある身舎(もや)の奥行きが狭い異例の構造という。天井の高さにも影響し、横長で扁平な建物になる。続日本紀に記された薬師如来像の高さは6尺3寸(約1.9メートル)。
 正面から見た柱の間隔は、7体の薬師如来像を拝む中央7間分を広くした。

 清水室長は「身舎の狭さは安置仏の低さを示している。正面の階段を含め、儀式上の必要性を反映するのではないか」と話している。

 同大の山岸公基准教授(東洋・日本美術史)は、7体の薬師如来像とそれぞれの両脇侍のほか、十二神将像と四天王像を合わせた計37体が、金堂に安置されたとの見方を示した。

 新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気回復を願って天平19(747)年に建立。同大が一昨年行った発掘調査で金堂とみられる基壇跡が見つかった。
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100202ddlk29040543000c.html
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/lecture/20100127-OYO8T00390.htm

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