今日は所要があって鎌倉。
普段なら観光客やピクニック客がディズニーランド並みに賑わっている鎌倉ですがまるでゴーストタウン。
お昼前の本来なら賑わっている時間帯ですがまるで人影がなし。
ちょうど通りかかったのが高徳院の大仏近く。
露座の大仏として地元で親しまれています。
実は元々から露座の大仏として建立されたのでなく実は大仏殿があったのです。
それがこのようなお可哀想な状態になってしまったのは過去の津波が原因。
明応大地震(1498年)によって引き起こされた津波の影響で鎌倉の大仏殿が流されたと。
http://www.kcn-net.org/kamakura/yuigahama/m2daibut.html
鎌倉はちょっとハイカラな雰囲気で大変好ましい感じがどちらかというと京都や奈良より神戸に近い感じがします。
特に昭和初期から残っている瀟洒な住宅街の一角など独特の格調です。
若宮や由比ガ浜など今では普通に住宅地、商業地になっていますがなるほど、古都鎌倉とは云っても北鎌倉の寺社と違ってこの周辺には鎌倉時代、室町時代はおろか江戸時代の建造物なども皆無です。
やはり長い歴史の中で自然の猛威に対し、100年、200年の単位では持ち堪えられないということでしょうか。。。
ところでもうひとつの日本の大仏、古都奈良東大寺の大仏は今でも威風堂々とした大仏殿の中におられます。
鎌倉の大仏とはやや対照的ですが実は東大寺の大仏も一時期(といっても約100年間)、今の鎌倉の大仏のような露座の状態にあったのです。
詳しくは本日のBSジャパンの開局記念番組「今よみがえる東大寺大仏殿幻の巨大仏像 遥かなる運慶の極彩空間」でも説明がある予定です。http://www.bs-j.co.jp/unkei/
実は、東大寺大仏殿は室町時代末期に兵火で焼失してしまったのです。
天変地異の地震、台風に持ち応えてきた東大寺大仏殿ですがさすがに火砲を交えた戦国時代の戦火には耐えれませんでした。
大仏殿に陣取っていた四国の三好の軍勢の失火と云われ、意図的に松永久秀の軍が焼き払ったわけではなさそうなのですがとにかく世の人の慟哭は大きかったようです。
被災した大仏を復元し、大仏殿を復興したのが東大寺の江戸時代の公慶上人。
http://www.todaiji.or.jp/index/koke/koke.html
はじめは冷淡だった江戸幕府の態度も、公慶上人の勧進で寄進が地元の奈良町から京都、全国へと広がるにつれ全面協力に変わったのでした。
1684年に始まった復興寄進は「一紙半銭」のモットーで全国津々浦々に拡がり、1709年の落慶供養まで辿りつくことができました。
公慶上人は過労のため、落慶前の1705年に江戸で客死し、現在は東大寺の公慶堂に坐像が祀られています。
充血した眼がリアルで特徴のある公慶上人像はいかにも慶派仏師の作風で皺も写実的で艱難の中、強い意思で復興に取り組んだ人となりを感じさせます。
公慶上人から学べるのは強い意欲と粘り強さがあれば途方もない復興でも可能だということ。
鎌倉時代の重源や叡尊、江戸時代の公慶上人などはまさに日本の歴史の中では屈指の復興請負人だったと思います。
東日本大地震から1週間が経ち被災地では懸命の復旧活動がなされ、福島原発では関係者の懸命の働きで最悪の事態が避けられつつあります。
現代では重源や公慶上人のような超スーパーマンは居ませんが全国の一人ひとりが「一紙半銭」の気持ちで支援していけば復興は時間の問題だと願いたいものです。
以下、引用
明応大地震
めいおうだいじしん
明応七年(1498)八月二十五日、遠州灘を震源地として起こった推定マグニチュード8.2~8.4の大地震。
地震自体の被害もさることながら、地震によって惹起された大津波の被害は西は紀伊半島紀ノ川流域から東は三浦半島、房総半島の広域に及び、無数の人命が失われ、田畑、家畜、家屋、船舶もまた流失して莫大な被害を出した。これにより、太平洋海運は甚大な打撃を受け、長きに渡る復興を余儀なくされる。
日記などの記録によれば、伊勢国大湊では八幡林の松の梢を大船が越えていき、「高塩」により家千軒と五千人の人間が流失したという。志摩国でも答志や相差、麻生などが大きな被害を受け、国崎はほとんどの家と人が流失した。大湊と並ぶ伊勢の中心港湾であった安濃津は津波で壊滅し、大永六年(1526)に連歌師・宗長がここを通り過ぎた際、「此津十年余以来荒野となりて、四、五千軒の家、堂塔跡のみ」と記している。
遠江国では浜名湖が決壊して入り海と化し、駿河国では小河が壊滅し、江尻もまた大きな被害を受けたとみられる。さらに鎌倉由比ヶ浜では津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達して長谷の大仏殿の堂舎屋を破壊し、二百人余りの溺死者を出したという。安房国でも安房郡小湊の誕生寺が津波によって水没したとされる。
また西では津波により海岸砂丘が突き破られて紀ノ川の流路が大きく変わり、壊滅した和田浦の住人が新たな紀之湊に移転したとされる。
普段なら観光客やピクニック客がディズニーランド並みに賑わっている鎌倉ですがまるでゴーストタウン。
お昼前の本来なら賑わっている時間帯ですがまるで人影がなし。
ちょうど通りかかったのが高徳院の大仏近く。
露座の大仏として地元で親しまれています。
実は元々から露座の大仏として建立されたのでなく実は大仏殿があったのです。
それがこのようなお可哀想な状態になってしまったのは過去の津波が原因。
明応大地震(1498年)によって引き起こされた津波の影響で鎌倉の大仏殿が流されたと。
http://www.kcn-net.org/kamakura/yuigahama/m2daibut.html
鎌倉はちょっとハイカラな雰囲気で大変好ましい感じがどちらかというと京都や奈良より神戸に近い感じがします。
特に昭和初期から残っている瀟洒な住宅街の一角など独特の格調です。
若宮や由比ガ浜など今では普通に住宅地、商業地になっていますがなるほど、古都鎌倉とは云っても北鎌倉の寺社と違ってこの周辺には鎌倉時代、室町時代はおろか江戸時代の建造物なども皆無です。
やはり長い歴史の中で自然の猛威に対し、100年、200年の単位では持ち堪えられないということでしょうか。。。
鎌倉の大仏とはやや対照的ですが実は東大寺の大仏も一時期(といっても約100年間)、今の鎌倉の大仏のような露座の状態にあったのです。
詳しくは本日のBSジャパンの開局記念番組「今よみがえる東大寺大仏殿幻の巨大仏像 遥かなる運慶の極彩空間」でも説明がある予定です。http://www.bs-j.co.jp/unkei/
実は、東大寺大仏殿は室町時代末期に兵火で焼失してしまったのです。
天変地異の地震、台風に持ち応えてきた東大寺大仏殿ですがさすがに火砲を交えた戦国時代の戦火には耐えれませんでした。
大仏殿に陣取っていた四国の三好の軍勢の失火と云われ、意図的に松永久秀の軍が焼き払ったわけではなさそうなのですがとにかく世の人の慟哭は大きかったようです。
被災した大仏を復元し、大仏殿を復興したのが東大寺の江戸時代の公慶上人。
http://www.todaiji.or.jp/index/koke/koke.html
はじめは冷淡だった江戸幕府の態度も、公慶上人の勧進で寄進が地元の奈良町から京都、全国へと広がるにつれ全面協力に変わったのでした。
1684年に始まった復興寄進は「一紙半銭」のモットーで全国津々浦々に拡がり、1709年の落慶供養まで辿りつくことができました。
公慶上人は過労のため、落慶前の1705年に江戸で客死し、現在は東大寺の公慶堂に坐像が祀られています。
充血した眼がリアルで特徴のある公慶上人像はいかにも慶派仏師の作風で皺も写実的で艱難の中、強い意思で復興に取り組んだ人となりを感じさせます。
公慶上人から学べるのは強い意欲と粘り強さがあれば途方もない復興でも可能だということ。
鎌倉時代の重源や叡尊、江戸時代の公慶上人などはまさに日本の歴史の中では屈指の復興請負人だったと思います。
東日本大地震から1週間が経ち被災地では懸命の復旧活動がなされ、福島原発では関係者の懸命の働きで最悪の事態が避けられつつあります。
現代では重源や公慶上人のような超スーパーマンは居ませんが全国の一人ひとりが「一紙半銭」の気持ちで支援していけば復興は時間の問題だと願いたいものです。
以下、引用
明応大地震
めいおうだいじしん
明応七年(1498)八月二十五日、遠州灘を震源地として起こった推定マグニチュード8.2~8.4の大地震。
地震自体の被害もさることながら、地震によって惹起された大津波の被害は西は紀伊半島紀ノ川流域から東は三浦半島、房総半島の広域に及び、無数の人命が失われ、田畑、家畜、家屋、船舶もまた流失して莫大な被害を出した。これにより、太平洋海運は甚大な打撃を受け、長きに渡る復興を余儀なくされる。
日記などの記録によれば、伊勢国大湊では八幡林の松の梢を大船が越えていき、「高塩」により家千軒と五千人の人間が流失したという。志摩国でも答志や相差、麻生などが大きな被害を受け、国崎はほとんどの家と人が流失した。大湊と並ぶ伊勢の中心港湾であった安濃津は津波で壊滅し、大永六年(1526)に連歌師・宗長がここを通り過ぎた際、「此津十年余以来荒野となりて、四、五千軒の家、堂塔跡のみ」と記している。
遠江国では浜名湖が決壊して入り海と化し、駿河国では小河が壊滅し、江尻もまた大きな被害を受けたとみられる。さらに鎌倉由比ヶ浜では津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達して長谷の大仏殿の堂舎屋を破壊し、二百人余りの溺死者を出したという。安房国でも安房郡小湊の誕生寺が津波によって水没したとされる。
また西では津波により海岸砂丘が突き破られて紀ノ川の流路が大きく変わり、壊滅した和田浦の住人が新たな紀之湊に移転したとされる。
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