甲斐犬のふるさと甲府でこんな新解説が紹介されました。 山梨日日新聞からの引用です。 五層だったか四層だったかは微妙かもしれませんが三浦先生の案は十分説得的かと。 ぜひ、甲府城天守復元期待したいところです。 http://www.sannichi.co.jp/local/news/2012/10/28/8.html 完成すれば富士山絶景が眺める天守としてかなりの観光スポットになるでしょう。 | ||||
「甲府城天守閣は4重構造」
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三浦教授は、築城年代などから望楼型の入り母屋破風という造りだったと特定。現存する天守台の形や造形的な観点、大名の格式から4重4階建てと仮定して復元図を作製した。さらに精査した結果、3階部分を高くした4重5階建てだったと結論付けた。 三浦教授によると、天守台は南北に22メートル、東西に16メートルと細長く、宇喜多秀家(岡山城)、毛利輝元(広島城)など五大老の城に近い面積を持つ。角は直角ではなく、上から見ると、方形ではなく多角形となっていて「直角に造ろうと思ってもゆがんでしまうほど技術が低く、時代が古かったことを表していて、日本の城郭発展の基本となった歴史的に価値の高い城」という。 城内で大型の鯱しゃち瓦が出土していることから、三浦教授は天守閣があったと判断。関ケ原の戦い(1600年)以前の豊臣政権下、浅野長政、幸長親子の手によって築城され、17世紀半ばまでにはなくなったとしている。 三浦教授は「天守閣は豊臣政権によって徳川家康をけん制するために造られた。耐用年数より短い期間でなくなったのは家康にとって江戸に押し込められた象徴だったからではないか」と話した。 |
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